伊勢神宮の社殿を一時的にコンクリートで造営したらどうか。
20年に一度の式年遷宮をめぐり、そんな案が出たことがあった。
62回遷宮に向け神宮司庁が出した写真集には
「明治時代、ある政治家が明治天皇に建言した」と書かれてある。
用材のヒノキが育つまでには200年以上かかる。
心もとないので「時間稼ぎ」をした方がいい。
そんな発想だったらしい。
57回目が5年後に迫った1904(明治37)年。
日露戦争が始まった年だったため、戦費の調達問題も
背景にあったのかもしれない。
仮に受け入れられていれば、歴史の転換点となった可能性がある。
それにしても、国内にコンクリート建築が見られなかった時代に
斬新な提案をしたのが誰だったのか、興味が湧く。
神宮の元禰宜(ねぎ)で五十鈴塾の矢野憲一塾長の著書によると、
侍従長を通じ進言したのは、内務大臣の芳川顕正と
宮内大臣の田中光顕の2人だった。
芳川は官僚制度を確立した山県有朋の側近で、教育勅語発布に力を尽くした。
田中は土佐脱藩の志士として薩長同盟成立に奔走。
日露戦争では皇后の夢枕に立った坂本龍馬が「日本を守る」と言ったとの
作り話を流した「策士」でもある。
明治天皇は、今の様式に従うべし、伊勢にヒノキを植えよ、
と幕末の動乱を生き抜いた2人の進言を聞き入れなかった。
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